ナカノブひとりぼっち

(日常はあっけなくデストロイされちまった!)

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雷句誠と小学館は和解しないだろう

雷句誠先生の訴訟を提起する以前に、なぜ和解が行われなかったのか、と聞かれたので、私の推測するところを答えたい。

おそらく、訴訟を受ける小学館としては、和解をしたかったのだが、できなかったのだ。

少なくとも、今回のような訴訟があることを知っていたとすれば、小学館側が和解しようとすることは確実だろう。なんといっても悪い宣伝になるし、賠償金額も大した額ではないからだ。

そして、前々から雷句先生はブログで小学館の仕事は今後受けない、と発言していたのであり、原稿紛失などでもめていた当事者である小学館としては、雷句先生から訴訟を起こされることはおそらく予見できていたはずだ。

もっとも、小学館は、雷句先生側が、今回の事件のように、ネット上で大いに話題となるような態様で小学館への訴訟を提起するという事態が生じることを予測していなかったため、雷句先生との訴訟による影響はかなり限定されたものだと考えていたとか、あるいはそのような事態が生じたとしてもこれほど話題にならないだろう、とたかをくくっていたのかもしれないけれど。

しかし結局、裁判外での和解はなされず、現実に訴訟は提起された。そして大きな(多くは小学館にとっては不本意な)話題を呼ぶに至った。

どうも、和解が成立しなかったのは、雷句先生の側に、損害賠償を求める以外に、訴訟提起自体によって漫画家の待遇を改善しようとする目的があったためと思われる。『本訴は、漫画家が、編集者、出版社から、あまりにも対等でない扱いを受け続けていることに対して、一種の警鐘を鳴らすものである。』などといった訴状の記載、賠償金額の低さなどがそれを示しているように思われる。

また、出版がらみの訴訟は一般にこじれやすいということも指摘される。

以前、ある知財弁護士の方が『どうしても著作者人格権がらみ、出版がらみの訴訟は離婚時の子供の親権訴訟みたいになってきてこじれやすくなっちゃうんだよね。作者にとっては作品や版権ってまさに苦労して生んだ子供みたいなもんだし、それは出版社にとっても同じだし、お金も絡むし』と嘆かれていたことを思い出す。私は作家でも出版社の社員でもないが、その気持ちはよくわかる気がする。



…そんなこんなで、結局、訴訟は提起されてしまった。これからは訴訟でいろいろなことが明らかになってくることと思われる。今まで雷句先生に言われっぱなしだった小学館側の言い分に注目が集まるところだ。

ところで、雷句誠先生と相対する小学館の側は、訴訟となればかなり優秀な代理人を連れてくることと思う。

というのも、小学館の久保雅一キャラクター事業センターセンター長(この人は昔コロコロの編集をやっていた人であり、ポケモンをアメリカに売りに行った人である)はエンターテインメント・ロイヤーズ・ネットワークというNPOの理事を勤められており、当然、弁護士のつながりも豊かだろう。弁護士報酬をけちらなければ、国内でも選りすぐりの弁護士を連れてくるはずである。

もっとも、この訴訟で小学館が争っても得られるものは限られており(もともと雷句先生の側が求めているのは300万円ほどの賠償金に過ぎない)、争点も限定的であり、ブログ上で小学館の編集者をあしざまに罵ったということで名誉毀損か何かで別訴や反訴を提起でもしない限り、弁護士の腕が発揮されるような争点が顕出されるとも思えない。だとしたら、弁論では請求原因についてはすぐ自白し、とっとと判決を求めることに力を注ぐかもしれない。

(7月28日追記:
小野弁護士のブログによれば、今日行われた第一回口頭弁論で、小学館側は、原告側(雷句先生側)の請求につき、事実を認めるという態度を示したというので、結局、上記の『弁論では請求原因についてはすぐ自白し、とっとと判決を求める』というタイプの方策を採ったようだ。

小野弁護士は『潔いというか、そう答弁するしかないというか、拍子抜けというか、何とも複雑な心境ですが、答弁そのものには誠意が見られたと思います。』とコメントされているが、ここ一ヶ月ほどの間、いかにこの訴訟の提起そのものが話題を呼んだかということを考えてみると、小学館が今回取ったこの方策が、訴訟にケリをつけるための方策としては一番てっとりばやくて簡単で遺恨を残さない方策だ、ということは多くの人が認めるところだと思う。

私は、小学館はもう法廷にも出てこないで調書判決になったりするんじゃないかとか、いろいろ考えていたのだが…そんなことはなかったのだね。

今後について小野弁護士は『雷句さん自身が後に続く漫画家のための道しるべになるべく本訴を提起した目的も果たせなくなってしまいますので、本件和解の内容が、後に続くリーディングケースになるような内容の和解内容にしたいと思っていますし、そのために知恵を絞っていきたいと考えています』とされているので、裁判外だけではなく、雷句先生・小学館の双方の間で、訴訟上、訴訟外でもなんらかの交渉が引き続き行われることになるのではないかと思う。『後に続くリーディングケースとなるような…』というのが若干曲者ではないかと思うけれど、事実について争いがなくなったなら交渉もきっとスムーズに進むことだろう。

この訴訟は漫画家にとってのリーディングケースとなっただけでなく、出版社の側にとってのリーディングケースにもなることだろう。そして、訴訟なんて長引いてもいいことはないので、今回の訴訟は雷句先生側、小学館側にとってもよい結末が導けそうだと言えるのではないだろうか。

…しかし、一ヶ月以上前につけたこの記事のタイトルは大外ししたことになるなあ。雷句先生が労働関係訴訟のごとく、徹底的に闘争することで今後の漫画家・出版社間のリーディングケースになろうとしているのかと思っていたんだけど、小学館側の譲歩によって、まぎれもなく今回は和解の一種が成立することになるんだろうからなあ。雷句先生を応援する人が多かったことが、小学館側のこの結論に至るまでに大きな影響を与えていたのだろう。雷句先生の勇気ある提訴がよい結果をもたらしたことはもちろんだけど、小学館が空気を読んだことも重要なケースだったようだ。

というわけで私の予想は大外ししたわけですが、あえて消さないでおきます。恥ずかしい。

罪滅ぼしに、早いうち、雷句先生が次の作品に取り掛かれるようになり、また、小学館の知的財産権等の管理体制が向上するように祈っておきます…)

対して、雷句先生の側の代理人、小野智彦弁護士は、私は知らない人だった。ただ、調べてみたところ、ブログをお持ちで、手品用に日本のコインを加工することが貨幣損傷等取締法違反になるかという事件だとか、それに関連した訴訟としてテレビで手品の種明かしをしたことが不法行為に当たるかという事件だとかを扱われた方のようだ。けっこう変わった事件を好んで扱っていらっしゃる方なのか、それとも来るもの拒まずなのか、あるいは私が知らないだけですごく有名で優秀な方なのか。そして雷句先生とはうまく訴訟で協同できる方なのか(依頼者と代理人がもめるケースも多いが大丈夫だろうか)。

個人的には、小学館の法務・ライツ局は、雷句先生との訴訟に訴訟費用をかけるのではなく、エンターテインメント・ロイヤーズ・ネットワークの人脈を活かして社内の知財管理体制整備の専門家を雇って、出版社によくありがちな契約の不備や著作者人格権保護不備を防ぐためのシステムを構築することにお金をかけてほしい。そしてそのノウハウを他の出版社にも伝えてほしい。マスターキートン事件の二の舞はもうたくさんなんだ。

(そして、おそらく本件では和解はなされないであろうことを考えれば、『金色のガッシュ!!』が絶版になる可能性も高い。版権は雷句先生の次の仕事先の企業に移されるだろうが、新しい版の単行本になるにあたって、本の内容が少し変わったりするかもしれない。記述が増えるのは歓迎なのだが、新しく版を作り直すに当たっては、しばしばおまけ的な部分が削られることも多いことから、不安もある。小学館からは愛蔵版なども出ないだろうから、愛蔵版待ちの人はとっとと買ったほうがいいだろう)

追記:
ふと思った。出版社は週刊誌の記事などについて名誉毀損で訴えられることに慣れていると思うが、名誉毀損で訴えることには慣れているんだろうか?慣れているとしても、いつも名誉毀損スレスレだったり名誉毀損そのものだったりといった行為をしている出版社の側が、名誉毀損で訴えを起こしたとしてもあんまり説得的な訴訟はできなさそうな気がする…だとすれば、小学館の側が名誉毀損の訴訟を起こす可能性はかなり低そうだ…。

雷句誠の訴訟を訴状等から分析してみよう

『金色のガッシュ!!』で有名な雷句誠先生が小学館を相手取って訴訟を提起したことがネット上で話題となっている。雷句誠先生のHP上で訴状等が公開されているので、その内容を分析してみよう。

一、陳述書の内容について

おそらくこの陳述書は雷句先生が書いたものなのだろう。文章の最初のほうではですます調なのが、後半になるにつれて、である調になったりしていて怒りの度合いが伺える。

陳述書は、訴訟の請求原因などに直接関わらないことでもとにかく訴えに至るまでの経緯が読者に伝わるように書かれるためのものなので、『私はこれこれの理由で怒っているのです』ということがはっきりと読み手に伝わるこの陳述書は、なかなかよくできているといえるだろう(もっとも、小学館側から提示された50万円という償金の内訳に不信を抱いておられるようだが、そのへんのくだりは不用だったかもしれない。常識的に考えて『賠償金』というのが紛失した原稿そのものへの対価で、『補償金』というのが精神的な慰謝料の意味で、50万円とキリよくした、ということだろうし、訴訟にもあまり関係がない)。

後に述べるように、この訴訟の請求原因は債務不履行(原稿の取り扱いに関して締結された、漫画連載契約及び出版契約に付随する契約かと思われる(寄託契約としていたところをコメントにて指摘を受け、6月24日改める)契約に基づく善管注意義務違反という債務不履行)による損害の賠償請求および(原稿を紛失するという不法行為による精神的損害についての)慰謝料請求であるから、この陳述書で述べられた「いかに小学館が自分を今まで苦しめてきたか」という文章は特に慰謝料請求の部分で斟酌されることになる(原稿を紛失するという不法行為による精神的損害がこの訴訟で請求されている損害賠償の内容だが、それに至るまでの経緯も裁判官の心証としては斟酌されることだろう)。

(無償寄託契約の場合について検討していたが、商人たる小学館がその営業として行っていたものだと考えられる、とのコメントでの指摘を受け、善管注意義務が課されない無償寄託契約とされる可能性はないものと判断し、6月24日、当該部分を削除した)

二、請求の趣旨について

請求の趣旨というのは、裁判所にどのような判決を求めるか、という部分だ。
今回の訴訟では以下のようになっている。

 1 被告は、原告に対し、金300万円及びこれに対する訴状送達日の翌日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
 2 被告は、原告に対し、別紙絵画目録記載の絵画のポジフィルムを引き渡せ。
 3 訴訟費用は被告らの負担とする。
 4 第1項につき仮執行宣言

請求の趣旨について目を引くところは、1の300万円の請求と、2のポジフィルムの引渡しだろうか。
順に検討しよう。

①まず、請求の趣旨1から。

請求の趣旨1の300万円の内訳は、原稿の取り扱いに関して締結された、漫画連載契約及び出版契約に付随する契約(寄託契約としていたところをコメントにて指摘を受け、6月24日改める)に基づく善管注意義務違反による損害150万円の賠償請求と精神的損害150万円の慰謝料請求である。

まず、原稿紛失それ自体の損害の検討について。一応、訴状においては『原稿についての寄託契約』(単に寄託契約としていたところをコメントにて指摘を受け、6月24日改める)違反ということになっている。漫画の原稿については作家の持ち物であって、出版社はそれを預かっているだけということになっているらしい。もしかすると、出版社の側は、預かったのではなく原稿については買い取ったものだということを主張するかもしれないが、慣例として原稿を返却することになっていたようだから、出版社の側が返還義務を否定したとしても、認められがたいだろう。また、今回の寄託契約が善管注意義務違反を導くものであったかどうかという問題は被告側の答弁などを通して明らかになってくることだろうから、ひとまずさておこう。

おそらく、重要な争点となるのは、原稿紛失の損害が150万円を下らないものであるかどうか、ということだ。5枚のカラー原稿はそれぞれ30万円の価値を持つものであるか、ということだ。マニアである私からすれば、作者直筆、実際の本にも使われた原稿が一枚30万円というのは、当然そのくらいするだろうなあという気がするのだが、小学館側の弁論を経た上で、裁判所がそれを認めるかどうかは別問題だ。一枚30万円の絵画というと、そうありふれたものではない。生原稿の市場というものがどのように形成されていて、どのように価格が判定されているものなのかなどを含めて、原告としては困難な主張立証課題が課されることになるだろう(訴状によると、ヤフオクでの実績などから判断しているようだが、どんなもんだろう)。しかし、原告側の代理人のがんばりによってはもうちょっと高い金額設定もできた気がするのだが、どうだろう。もっと事前に宣伝をしておいたうえでのオークションとか、なんらかの実績をあらかじめ作っておけば、あるいは…。

次に、精神的損害への慰謝料について。

150万円という額が適切なものかどうかが争われることになるだろう。精神的損害というものには算定基準などもなく、その額の内容は裁判官の心証で決まってしまうので、これは訴訟が起こされてみないと結果がわからない。しかし、150万円ぐらいならそう高いハードルではないかもしれない。著作物というものは財産的価値とともに著作者の人格的な価値をも有するものであることから鑑みれば、命を削って書き上げた原稿を紛失したことによって大きな精神的ショックを受けるという主張がなされたとしても不合理ではない。

以下、私の意見としては:
全体に見て、この300万円という請求は随分安いように感じた。代理人が弱気だったのか、それとも『請求が満額、認められました!』といった形で精神的な部分での勝利を求めているのか、それとも雷句先生が忙しいのであんまり金額の内容には興味を持っていなかったのかなんなのか。

私の考えでは、おそらく小学館に勝つこと自体が雷句先生の目標になっているのではないだろうか。小学館に勝つことで小学館との決別をはっきりとしたものにしたかったのではないだろうか。そして新しい場所での仕事を確実なものにしたかったのだろう。

だとすると、小学館との和解が成立する可能性は、残念ながら、そう高いものではなさそうだ。しかし、小学館は、300万円ちょっとぐらいのコストなら、この訴訟によって引き起こされる自社への信頼の低下という損失と比較してもそう大きくないと判断して、すぐに訴訟を終わらせようとするのではないだろうか、どうだろう。

また、前述のように、著作物である原稿の紛失が人格権上の問題ももたらすことからすれば、また、陳述書にあるように小学館の編集者から色々と腹ただしい扱いを受けてきたというのであれば、謝罪広告等を出すように請求したりしないかなあ、などと思ったが、そのような請求はしていないようだ。

②次に、請求の趣旨2について。
ポジフィルムの引渡し…これが行われるとどうなるのか?
訴状の記載によれば『ポジフィルムがなければ、同一のマンガを出版することができないことは言うまでもない。』…ああ。出版が不可能になるのか…。これが容れられるかどうかも問題になりそうだ。

三、出版社に与える影響について

出版社は、他の業種と比べると…いや、比べ物にならないくらい、契約関係は非常にルーズに処理されている。たとえば自動車メーカーなどのの知的財産処理の現場とは比べ物にならないくらい著作権処理がルーズなように思える。出版社に熟成された伝統というか慣例なのかもしれないが、それによる弊害というのはかなり大きいのではないだろうか。

そういえば、福満しげゆきの『僕の小規模な生活』の中でも、モーニングとの間の連載が決定したのかしていないのかはっきりしなかったがために、福満しげゆきが困る、みたいな話があった。もしも連載の決定という重要な決定に際しては書面を取り交わすなどして、契約関係を厳密なものにしておけばこういった行き違いというのは無くなるはずだ。それについてそう多くのコストがかかるわけでもないだろうし、すぐできることだろう。そして、これは出版社全般についていえることだが、事業規模及び社会に対する影響に対しての法務処理に割かれるべきコストがあまりにも低くおさえられているように感じられる。ただでさえ、著作者と出版社がもめることは少なくないのだから。『マスターキートン』の事件とかもそうだったなあ。

四、漫画家に対する影響について

このケースが後々の漫画家にどのような影響を与えるか?この訴訟によって、一つの前例が作られることになるのは間違いない。しかし、その前例の射程となると、かなり限られたものになりそうだ。

雷句誠先生は小学館漫画賞を受賞され、アニメもグッズもヒットしていた。つまり、サンデーに連載を持っていた漫画家のなかでも、ずいぶん成功した漫画家なのだ。雷句先生は訴訟の意義として「弱い立場にある漫画家の権利のために」ということを強調されるが、ごく普通の新人漫画家の待遇がこの訴訟によってどれだけ改善されることになるかどうかは、未知数だ。

だが、少なくとも、いくつかの事実上の影響を与えることにはなるだろう。原稿管理体制はより丁寧なものになるだろうし、法務体制ももう少し綿密なものになるだろう。新人の原稿料ももう少しあがるかもしれない。

五、一読者としておそれていることについて
『金色のガッシュ!!』が絶版になること。作者や出版社とのごたごたで作品が市場に出なくなるのは悲しいし、著作者としては印税収入を得る機会を、出版社としても営利の機会を喪失する現象であるから、誰も得をしない結果になってしまう。そして読者も作品に触れる機会が少なくなるわけで、特に「ガッシュを読み返そうかなあ」などと思ったときに注文しても手に入らない、というのは悲しすぎる。

追記:
訴状には代理人の名前は書いてあるので、誰が代理人となっているかを知ることができる。豊島法律事務所の小野智彦…どこかで聞いたことがある気がするが、どこで見たかは思い出せない。何か別の事件で見たような…

それはともかく、豊島法律事務所の小野智彦弁護士ってどんな人だろう、と思って調べてみていたらこんなページがあって、小野弁護士が以下のような発言をされていた。


小野 クライアントに心を開いて頂けるように私は聞き役に徹して、じっくりとお話に耳を傾けることです。その中で解決の糸口を見つけていくのです。そして、なるべく訴訟にまで発展させず、和解へと導くようにしています。問題が起こった当初は、クライアントの感情は高ぶっていますからまずはそれを落ち着かせることが肝心ですね。弁護士の仕事は、物事の白黒をつけることではなく、紛争を収めることだと思うので、互いが納得して和解できれば、それが理想の形ですね。


どうも、小野弁護士は和解に積極的な方針を採っているようだ。これが訴訟にどのような影響を与えるかはわからないが。

川内康範が亡くなった

川内康範が亡くなった

川内康範を知らない人も多いかもしれないが、私が大好きなとある歌詞を書いた人だ。
ライコウマーチの歌詞だ。ダイヤモンド・アイという特撮番組のEDテーマ。ダイヤモンド・アイの原作者が川内康範だから、原作者が作詞家を兼ねていたというべきか。
ダイヤモンド・アイを知らない人も多いかも知れないが『外道照心霊波光線』は知っている人が多いかもしれない。GS美神などにもパロディとして出てきたことがあったな。

さて、そのライコウマーチの歌詞はどんなものか…

こういうのだ:

ペンが俺の刀だ
そこに悪があるから俺は行く
それが正義のためだもの

これが一番の最初である。一番全体はもうちょっと長い。

この歌詞にはダイヤモンド・アイのストーリーが大きく関わっている。
主人公は週刊誌の記者だったのだが、政治の圧力によって職を追われ、フリーになる。フリーになっても主人公はペンで悪を追っていく…というストーリーなのだ。
ちなみに、特撮番組なのだが、主人公は変身しない。彼とは別にダイヤモンドに込められている正義の使者みたいなのがいて(それがアイだ)、彼が戦ってくれる。主人公は戦いにおける主役ではない…
だが、ヒーローはアイではなく、雷甲太郎なのだ!
彼がペンで悪を追及していくドラマなのだ!

これを話して「いい話だろ?」と聞いても大抵の人は反応が悪いのだが、いいと思わないか?
特に「ペンが俺の刀だ」というこの出だし。ペンで悪と切り結ぼうとする男の姿が描かれたいい歌詞だよ。

一般的には川内康範は『おふくろさん』の作詞などをしたことで有名なのだろうけれども…
彼のこれらの業績が薄れないことを祈っている。

2007年度総括をしよう


あと少しで2007年度も終わろうとしている。普通は2007年のまとめは大晦日にやるものだろうが、年度末のほうが何かと都合が良かったため、このような形式を取って2007年度の総括をすることになった。
ここでは、本会の会員各々の本年度の本や映画などの印象を以下にまとめることにする。

さて、私の場合、特に今年読んで面白かった漫画を挙げようか。

数があるので、書名の列挙と軽いコメントに留めたい。
今年読んだだけであって、昔の漫画も含む。

1、関川夏央、谷口ジロー『坊ちゃん』の時代
 谷口ジローは『孤独のグルメ』の絵でネット上の話題を呼んだが、以前からコンスタントにとてもいい漫画を描いている人だった。そのなかでもこのシリーズは大好きだ。夏目漱石や石川啄木などの著名人の一人ひとりを深く掘り下げていて、興味が湧くとともに感情移入もできる。

2、唐沢なをき『カスミ伝』
 いわずと知れた実験漫画。そういえばこの中にも『忍者ファイト』で『怪獣ファイト』をパロディにした者があったなあ。『絶望ファイト』と絶望先生でもネタになってたやつ。

 なお、同じ作者の『漫画家超残酷物語』なんかも面白かった。

3、島本和彦『アオイホノオ』
 いやあ、熱いよ、いつもながら!
 モラトリアム話ということで「ダメな男の…」といった文脈で言及する人もいるけれども、これは必ずしもダメ人間の話ではなく、モラトリアムの中で漂ってしまう年代の大学生を描いた話だと思う。ストーリーの背後の80年代漫画シーンも面白い!

4、福満しげゆき『僕の小規模な失敗』
 ほんまもののダメ人間の話だろうか…なんでこの人はこんなにもネガティブなのか理解に苦しむほどネガティブなのだ。自分からだめになろうだめになろうとしているようにも思えてしまう…性格悲劇というやつだろうか、シェイクスピア以来の。しかし、客観的に見ればこの人はちゃんと漫画の持ち込みなんかもできるし、ヤングマガジンに持ち込んだりもしているしでちゃんとした人なのだ。ニートじゃないし…。なお、ちょっとだけ講談社周辺の風景が出てくる(護国寺のあたりか)。

5、安永航一郎の数々の漫画…『県立地球防衛軍』やら『陸軍中野予備校』やら『青空遠く酒びたり』やら…
 安永航一郎の描く女の子はなんか大抵あけっぴろげというか少年漫画ではあり得ないほどに度胸その他やらなんかがある。うまくいえないが。その点を気に入ることができるかできないか、が安永航一郎が気に入るか気に入らないかの狭間なんじゃないだろうか。

6、河合克敏『とめはねっ!』
 書道漫画という切り口が新しいし、キャラクターもいい!気の強い女の子はちゃんと気の強い背景がしっかりしているから単なるきつい感じのキャラクターではない(このへん、他の安易なツンデレ指向には何とかしてもらいたい気がする)。書道部の先輩なんかも若干イジワルそうな、しかし気のよさそうな親しみが持てるキャラクターたちなのだ。

…あと桜玉吉とか竹本泉とか、今までも面白かったし今でも面白いという漫画家やらバンブーブレードやらスケッチブックやらのアニメ化されて読んだ漫画も面白かったしで全部挙げていくとなんだかキリがなくなってきたのでもうやめようと思う…

しかし、今年は漫画の面白いものがたくさん読めた年だったよ。
来年も面白い漫画が読めますように。

児童ポルノ法をめぐる議論について

最近気になっていることがある。児童ポルノ法の改正如何だ。

改正の内容に関する議論については、ここでは触れないでおこう。長くなりそうな気がするからだ。私が問題としたいのは、議論そのものの方向についてだ。最も議論されるべきことがら、その刑事政策的な意義についての議論がほとんどなされていないような気がする。

児童ポルノ法(以下、本法)が関わる問題は多岐にわたるため、以下では、今一番問題となっている『被写体が実在するか否かを問わず、児童の性的な姿態や虐待などを写実的に描写したものを「準児童ポルノ」として違法化すること 』の刑事政策的な意味如何について述べたい。

本法の目的はその第一条に規定されている(戦後の法律は大抵目的を第一条に持ってきている)。
それによれば、この法律の目的はこうだ。

『第一条  この法律は、児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利を著しく侵害することの重大性にかんがみ、児童買春、児童ポルノに係る行為等を処罰するとともに、これらの行為等により心身に有害な影響を受けた児童の保護のための措置等を定めることにより、児童の権利の擁護に資することを目的とする。 』

つまり、目的は『児童の権利の擁護に資すること』であり、その手段として『児童買春、児童ポルノに係る行為等を処罰するとともに、これらの行為等により心身に有害な影響を受けた児童の保護のための措置等を定める』、と宣言しているわけだ。「準児童ポルノ」を違法化するとすれば、この目的『児童の権利の擁護に資すること』に適合することが求められることになる。

では、目的のために手段は適合しているのか?

この点、「適合していない」ということを主張するとすれば、例えば次のように述べることになる。

『この規制のベースは、「性的虐待の表現を目にすることで、人は性的虐待に走るようになる」という思想が感じられるが、果たしてそうだろうか。これは、本来逆の話だ。つまり元々そういう性的指向のない人は、いくら児童の性的虐待表現を目にしても、ただ嫌悪感を感じるだけである。一方実犯罪に走る人は、別にこういった表現があろうとなかろうと、何かのきっかけで引き金は引かれるのである。』
小寺信良『「児童ポルノ法改正」に潜む危険』三ページ目より引用)

つまり、性的虐待表現を含む表現物を好む人は元々そういった表現を好んでいて、それゆえに性的虐待表現を含んだ表現物を買い求めたりするのであって、そういう嗜好のない人はそもそも買い求めたりはしない、ということが述べられている。(…①)

これとは逆に、「適合している」ということを主張するとなれば、①とは逆に『元々そういう性的嗜好のない人であっても、性的虐待の表現を目にすることで、人は性的虐待に走るようになる』(…②)ということを述べる必要があるだろう。

さて、ではこの①、②の二つの意見はどちらが実態に即しているのだろうか。新聞なんかに掲載される識者の意見、なんてやつだと②の意見が多く、ネットユーザーの意見としては圧倒的に①の意見が多いだろう。そしてこれらの意見が提出される議論はいつまでたっても平行線で、見解は交差する点を見出す余地がないようにも思える。

だが、意外とつながりがあったりするのではないだろうか。つまり、実態としては②だけではなく①(あるいは①だけではなく②というべきなのか)の要素もあるのではないだろうか。

まず、そもそも興味のない分野の本を買い求めたりすることはない、という①については経験的に容易に検証できる。例えば私はいわゆるヤンキー趣味は持ち合わせていないので地方のコンビニエンスストアに行っても『チャンプロード』を手に取ったりはしない。別に釣りの趣味はないので図書館に行っても『近畿の鮎釣り』などといった本を借りたりはしない。私はミステリー好きだが、ミステリーに興味のない人は本屋に行っても『ミステリガイド』を手には取らないだろう。

では、②についてはどうか。①を踏まえて考えれば『元々そういう性的嗜好のない人』が『性的虐待の表現を目に』し、かつ『性的虐待に走るようになる』ということはレアケースのように思える。だが、次のようなことは言えないだろうか。

まず、本や漫画に触れることでなんらかの影響を受けることは、経験的に、よくあることだと問題なく言えるだろう。

また、例えば、何かの趣味Aを始めた原因として、『特にAに元々趣味があったワケじゃないけど、Bを扱った本を読んでたらちょっとAのことが出てて、それで気になったんだ』、みたいなことをいう人は多いと思う。従来有しなかった嗜好が新たに本や漫画の影響で形成されるに至ったケースである。具体的にはスパイ物の映画が好きだった人が、映画の中に出てくる銃がかっこよく思えてガンマニアになったり(私がそうだ)、普通の少女漫画が好きだった人が、漫画の中に出てくるちょっとしたボーイズラブ風の描写に魅かれて、本格的なBL好きになったり(知人がそうだ)、普通の漫画好きだったがマガジンに掲載された『ラブひな』を読んでいるうちにアキバ系の趣味に興味を持ち出したり、普通の漫画好きだったがサンデーに掲載された『かってに改蔵』を読んでいるうちにアキバ系の趣味に興味を持ち出したり…

…なんだかあんまりポジティブに捉えられないような嗜好の形成についてばかり具体例を挙げたが、「『スラムダンク』をヤンキー漫画だと思って読んでたら、しっかり立ち直った三井の姿に感動してヤンキーをやめた人」なんていうケースも勿論あるだろうから、本や漫画が与える影響について否定的な印象ばかりをもって捉えることはないだろう。

ただ、ポジティブな影響を与えることがあることが認められるとすれば、同時に、ネガティブな影響を与えることもありうるといえることだろう。本が人に与える影響力は価値中立的なものだからだ。

だとすれば、何段階かのステップを踏んだ後、今までにその分野に対する嗜好を持っていなかった、あるいは拒否反応を示していたような種類の表現物に対しても違和感なく接するようになることがあるといえるだろう。例えば、
『バカボンド』を読む→
同じ作者ということで『スラムダンク』を読む→
『スラムダンク』とだいたい同時期のジャンプ漫画ということで『ろくでなしブルース』を読む→
今まで嫌いだったヤンキー漫画も読むようになる、などといったような。

性的嗜好に関してはより固有の嗜好が強いためにそのような現象は起こらないのではないか、と思われる向きもあるかもしれないが、現実にこのような嗜好の形成が存在することは一般に周知のものとなっているようだ(また、この現象をポジティブに捉えて、カナダ(かどこかの外国)の性犯罪者の更正プログラムでは利用されているそうだ。社会的に好ましくない性的嗜好(例えば暴力的な性行為など)を有する受刑者に、社会的に妥当なポルノグラフィーによるマスターベーションを行わせることで、社会的に好ましくない性的嗜好を抑えることができた、という報告が日本の刑事政策雑誌『罪と罰』の2、3年前の号に載っていた(記憶があるのだが、現物を探したにも関わらずなかなか見当たらないので見つかり次第この部分の記事は差し替える))。

そして、形成された嗜好については、やはり人間、ぜひ実行に移してみたいと考えるのが人情だろう。例えば私はガンマニアで、やっぱりできれば銃を撃ってみたいと思っている。だが私や多くのガンマニアは銃刀法等を考慮することができる人間であるから、条例や法律の規制値に適合したエアライフルをぱすぱす撃っていたり、あるいは銃を撃っても構わないところまで旅行して銃を撃っているのである。そして、銃の乱射事件が起こったりすれば普通の人と同様に、あるいは(銃に対する社会の目が厳しくなるな、と嘆いて)普通の人以上にそのような事件が起こることを悲しんだりする。児童ポルノの愛好者だって、同様のことが言えるだろう。できればそういうことをやってみたいのだけれども法に触れるのは本意ではないし、そのような事件を起こす輩を憎んでいるはずだ。

だが悲しいかな、ガンマニアが高じて銃の乱射事件を起こす奴や、小児性愛が高じて児童に対する性的な虐待事件を起こす、堪え性のない奴は確実に存在しやがるのである。存在し、その嗜好形成原因と事件との因果関係があるがゆえに銃の所持は厳格に規制されている。児童ポルノが小児性愛を形成する可能性があり、そして小児性愛者が性的な虐待事件を起こすという因果関係がはっきりと認められれば、児童ポルノに対しても何らかの規制がされるべきことになるだろう。

しかし、この問題に関しては、仮に『ある種の本や漫画がネガティブな嗜好を形成する可能性があり、かつその嗜好が発現されるおそれがある』と言えるとしたとしても、それだけで即『だから規制されるべきだ』とはならないはずだ。

例えば、現実に18歳未満の女性と性的関係を持てばなんらかの罪に問われるだろうが、そのような嗜好のはけ口としてポルノが使用されることによってむしろ犯罪の抑制に役立っているという点も同時に指摘するべきだ。前述のカナダ(かどこか)の性犯罪者更正プログラムにおいて活用されているような側面も注目に値する。

だとすれば、本法の刑事政策的な意義を考量するにあたっては、児童ポルノが今まで担っていたポジティブな側面(はけ口としての側面)とネガティブな側面(新たに児童への性的嗜好を形成し、発現のおそれがあるという側面)について、秤にかけた結果、どちらを重視するべきかを判断することになるだろう。児童ポルノが犯罪に抑制的に働くと考えるならば本法の改正は妥当ではないし、児童ポルノが犯罪を増長すると考えるならば本法は改正すべきだ。

現在の議論について概観しても、その内容はその価値考量判断に至らず、感情的な好悪のレベルの議論に留まっている気がする。

以上から、本法の改正を推進しようとするならば、そのネガティブな側面がどのようなものであってどの程度あり、どれほどポジティブな側面に対して優越するものであるのか、ということを調査し、検討し、報告するべきだ。改正に反対するとすれば、その主張されたネガティブな側面が優越するという点について否定する証拠や主張を提出すべきことになる。そのような段階を踏まない感情的な議論はそれ自体失当であるように思われる。


…なお、以下、きわめて個人的な意見を述べさせてもらえば…

一、まず、刑事政策的な観点からは、刑罰はなるべく謙抑的になされるべきであるということが指摘される。刑罰の現実の姿としては、やはりそれは苦痛を伴う害悪であり、犯人の全生活のみならず、犯罪とは全く無関係の犯人の家族や親族らにも無形・有形の負担を強いていることは否定すべからざる事実である。だとすれば、仮に規制を加えるとしてもそれは刑事処分であるよりも行政処分であったほうがいいのではにだろうか。また、科刑に関しても、懲役刑などの自由刑ではなく、罰金及び没収のレベルに留めるべきではないだろうか。

二、上述のように、本法の評価の前提としてポジティブな側面とネガティブな側面があることを踏まえれば、規制されるべき児童ポルノは特にその内容に対応したものであるべきなのではないだろうか。例えば、単に少女趣味のあるポルノと少女への暴力的な性行為を描いたポルノとを同列に扱って規制するべきではないだろう(堪え性のない奴が「実際にその内容を実行したくなった」場合により法益侵害の度合いの強度な内容のものか否かを考慮するべきだ)。そのような暴力的なものに関しては別論、ハードコアでないポルノについてはポジティブな側面を重視し、規制すべきではないと思われる。

三、二にも関係することだが、刑事政策的に見た場合、児童ポルノよりも、より問題のある内容の表現物があるのではないだろうか。児童ポルノはまず第一に規制すべき対象なのだろうか。たとえば文章中に挙げた『ファンロード』…がそうだとは中身を見たことがないのではっきりとはいえないのだが…暴力的な行為を称揚するような表現の漫画などに未だ価値観が流動的である青少年(だいたいこういう表現を使ったときの『青少年』は中学生ぐらいの子供がイメージされているのが普通のようだ)が接した場合の影響を考えれば、現実的には、児童ポルノよりもより多くの問題が内在している気がする。ヤンキー向け雑誌を興味本位からか読みすぎて、中二病をこじらせてヤンキーになった奴ってけっこう多そうな気がするのだ。もっとも、この点に関しての統計調査などはないだろうし、あったとしてもその信頼性が問題となるから期待はしていないけれど…
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